• 2021.08.27 Friday
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 CDを買わなくなって久しい。
産まれて初めて買ったのは、D-SHADEというヴィジュアル系バンドの
「truth」というシングルだった。
当時はさまざまなヴィジュアル系バンドが雨後のミミズが如くウヨウヨと
メジャーデビューさせられ、本人達も迷惑だったろうことだとおもう。
D-SHADEのヴォーカルにいたってはラジオ番組なんか持たされちゃって。
緊張丸出し状態、構成台本ガッチガチの喋りだったとさ。

 シングルCDは短冊と呼ばれていた。長方形の紙ジャケットで、
12cmCDが一枚入っているプラスチックの土台と
歌詞がプリントされている厚紙がボンドか何かで接着されているような。
今ではもう無くなってしまった仕様である。

 CDを買うという行為はどことなくシティボーイの仲間入りのような気がして、
当時中学生だった気がする俺は非常に緊張したのを覚えている。
まるで洋服を買いにいく時のような緊張感だった。
店の中にいる人間すべてが俺を注視し、
「うわぁあのガキだせぇ・・・」とか思っているんじゃないかと。
実際には全く誰も俺のことなんか見ちゃいないのだが、
そんな勝手な被害妄想を逞しくさせていたのだ。

 大学に入ってから色々とCDを買うことも多くなったのだが、
誰々の新譜が出たから買っちゃうぜ!みたいな
非常に未来に目を向けた、市場を潤わせて少なからぬ人を笑顔にさせるような
そんな行為は・・・無かった。そういや「新譜」と呼ばれるものを買ったのは
上に挙げたD-SHADEと、GLAYの「winter again」の2枚だけである。
じゃあ何を買っていたのかというと、中古で500円くらいで買えるようなのを
わざわざ新品で買ってくるという、誰が喜ぶってレコード会社の
社員だけがニヤッとする程度の効果しかない。
だってアーティスト本人死んじゃってたりするのだし。
でもNIRVANAのライヴ盤とJimi Hendrixの2枚組を買った時の興奮たるや。。。
まぁいいや。

 会社に勤めていた時はアホみたいに新品CD(やっぱり新譜じゃないんだけど)を
買い漁っていた気がする。CDを買うということは加えて、
自分がこれまでの人生で味わったことが無かった音楽体験ができるということで、
それは刺激のない泥沼みたいな日常をガラリと変えてくれていたと思える。
やっぱり音楽っていいなぁって、痛烈に思ったのを記憶している。

 そんなこんなで。先日久しぶりにCDを買った。
Foo Fightersの2ndとJimi HendrixのCDを2枚の計3枚。
相変わらず新譜じゃない。でもいいのだ。Fooは暫く活動休止だし、
Jimiに至ってはお亡くなりである。古い音源買ったっていいじゃない。

 内容がどうだったとかはまぁ素晴らし過ぎるので文にするのは控えます。
ただ、久しぶりに「CDを買う」という行為をして、「あぁ、こんな感覚だったなぁ」
と思い出したのだ。

 いやー。音楽ってホントに、いいものですねぇ
というコッテコテの締め方で失礼つかまつる。



 毎度どうも。
さて、いつも書くにあたってひとつ、考えることがある。
書くってブログのことね。主語を気をつけないとイライラしちゃうからね日本人。
会話をしていて主語が無いと、なんだかリアクションも
「あぁ・・・うん」
みたいな綿飴みたいな状態になってしまう。いや、これは綿飴に失礼か。
引いては綿飴を作っているオッチャンに失礼であり、
その綿飴屋台の場所を提供している地域密着型のコワイ人達に対して失礼である。
もうテキ屋とかっていないのかな・・・?

 ともかくも、ブログを書くにあたってである。
読んでいる人は大抵、筆者である俺の知り合いである場合が殆どで、
俺のことをまったく知らない人がこのブログを目にし、
尚且つ文章をシッカリ読んでいく事なんて全くと言っていいほど無いと思われるが、
絶対なんてことは絶対無い、というどこか矛盾しているような格言もあることだし、
年に1回くらいは「誰だコイツ。」みたいな事を思いながら読む人がいるかもしれない。

 そんな人でもちゃんと読めるように文を書かなきゃならんと思いつつも、
一体どうすればいいのか解らないというのも事実。
そんな中学生が手淫に使った後のコンニャク状態を前提に置きつつ
毎回ブログを書いている。

 例によって何を書こうか決めないまま書き始めると
大抵はネットの広大な情報大洋に浮かぶ産廃みたいな文章が出来上がるのだ。
塵も積もれば山となるの言葉を胸に、今日もチマチマとゴミを生産し続けるのだった。

 
 タイプライターというものを触ったことがあるだろうか。
プライベート・ライアンの1シーンで、オフィスみたいな所に詰めたオバサン達が
一心不乱に戦死者の遺族への手紙をテンプレートに合わせて打っている光景がある。
今じゃ名前の所だけ変えてあとはコピーなのだろうか。
それこそ賞状みたいな感じで。だとするとなんだかやるせない気持ちになる。

 ところでタイプライターである。
家の近くのハードオフで売っていたのを先日目にした。
初めて実物を見たので、思わず「おぉ・・・」と感嘆してしまったのだが、
実際のところどんなキータッチなのだろうと思って、暫くいじっていたのである。

 パソコンにはそんなに詳しくないのだが、ことキーボードとマウスに関しては
父もそうなのだが、何かとこだわりがあるのだ。
マウスはマイクロソフトの物しか使わない。トラックホイールの具合とか
手にシックリくるようでそうでもない形とか、要するにお気に入りなのだ。
キーボードは旧IBM、現Lenovoのものが特に良い。
最近流行りなのであろうパンタグラフタイプのキーボードでも、
なんだかナヨナヨしていて押したんだか押してないんだか微妙な力加減の所で
キーが認識されてしまうものが多くて弱っているのだが、
IBMのものはキーがある程度硬いので、キーボードを売っている感覚が
しっかりと掴めるのだ。そして何よりも音がいい。ナヨナヨパンタグラフの
「ペチっ・・・フニャッ・・」という何ともヤル気を削がれる音ではなく、
「カタカタカタ・・・バシッ」(最後のはエンターキーの音です。念のため。)
という「うぉりゃあ!俺はいまキーボードを打っているぞ!」
といわんばかりの音。これが何よりもすばらしい。

 さてタイプライターはどうだったかというとだ。
これまた味な音を立てるキーボードだった。
押下と同時に活版のアームが作動して印字するのだが、
その作動音が「ガション」とでも言うのか、そんな音なのだ。
ガションガション言わせて、レバーで紙戻しをするときの
「ジコジコジコジコ・・ジャキーン」
という音。これぞタイプライターである。う〜ん、欲しい。
欲しいけど使わない。

 ハードオフにはタイプライター以外にも、全時代の骨董じみた物が多数あった。
最早テープの入手が困難であろうオープンリールのテープデッキ。
8mmフィルムのチェック用機材、黒電話、蓄音機。
棚に無造作に置かれたそれらが買われる日はいつくるのだろうか。
どこかの劇団が舞台装置用に買っていったりするかもしれないが、
オープンリールデッキはちょっと本気で欲しいと思うのだ。
あれでしか出せない音って、きっとあると思うのである。

  • 2010.11.27 Saturday 21:54
  • ルード・ポルノ (photo)
  • by モンキー


 今更気がついたのだが、未投稿のままの記事が3件ほどある。
去年、会社にいた頃からライヴハウスでバイトをしていた時期、
おそらく電車の中でメモ代わりに途中まで書いて放置していたものだ。
内容はなんてことないものなので、敢えて再録しようとは思わない。
が、今日のタイトルはその未投稿の記事から採用している。

 先日、大学時代に所属していたゼミのホーム・カミング・パーティが開催された。
が、周りを見渡しても知らない人ばかり。同期は数人のみ。
ホーム・カミング・パーティなのにほぼアウェイ状態で、
大量にある酒もほとんど喉を通らない。なんとも悲しい状況であった。

 その帰り道である。
そういやブログのネタになるようなことが何も無かったなぁと思いながら、
ブログってどうやって書いていたっけかと考えてみたのだ。

 読んでいる人からしたら、脳味噌から直接書いてますよー的な文が多いだけ、
考えるままに書いていると思われていると、そう感じているのだが、
実際そうでもない。考えている事は考えているものの、そのまま垂れ流しに出来るほど
頭の処理速度と指がキーボードを操作するスピードは一致していない。

 対向車線のヘッドライトを見れば
「あぁ・・・ヘッドライトって嫌いだ。でも虎舞竜のロードは・・・あ、あれはテールランプか」
と頭の中でグルリと巡らせ、ヘッドライトから目を逸らして街路樹を見れば、
「江戸時代の飢饉とかじゃあれの皮食ってたんだよなぁ」
とボンヤリ思い、翻って自分が食っているフライドチキンの皮を見て
「コンビニの深夜のチキンってホント水分ねぇな!そういや大学時代・・・」
みたいな感じで8mmフィルムのコマ送りが如く次々に思考が切り替わるのだ。
それをそのまま文章に同じ速度で写すなんてこと、不可能なのだ。

 もし考える速度そのままで文章に起こすことができたなら、
きっとすべての文豪はリライトの回数に絶望し、みんなして手近な川に向かって
ズブズブと沈んでいくことであろう。
その中には俺を含む全ブロガーの背中が見えたり見えなかったり。

 
 更新しねぇしねぇと思っていた周囲の人々のブログが、
次々と再開され始めている。
しかもこれまた趣向を凝らしていたりして、小憎らしい。
いや、小粋と言うべきか。構成力の無い俺がただ単に
「そ〜ろそろブログ再開してみるべぃ。んで毎日書いてみるべぃ」
とかノッペリとしたテンションで思い立ったが為に、
みんなのブログを読んでハンカチキュ〜ってなってるのである。
グヤジイグヤジイである。アタイだってこういう御洒落なかほりのする
そこはかとなくインテリジェンスな雰囲気のブログ書きたい書きたい!
とか思うのだが、今更「じゃあアルファベットでテーマやっていきます」とか
「20分で一筆書いてみます」なんて言ってみたところで
パーフェクツな二番煎じである。うっす〜くなっちゃったお茶状態。
それが二番煎じ。一段落が長い時は大抵、脳味噌から指先へ直通ダイレクトテレショップで
文章を垂れ流しているので、このまま勢いで。その勢いで。

 先日、ザッピングについて書いた。
テレビのチャンネルをグリグリ回して、観たい番組を探す行為のことである。
ところで俺はこのザッピング行為というのが大嫌いである。
せわしなくチャンネルを変えていく画面を見ていると、
ソワソワして落ち着かない気分になるのだ。
まるで産まれて初めて火遊びをしている子供のようなソワソワ感。
小便漏れちゃいそうになるのだ。簡単に言うと。イライラションションな感じなのだ。

 テレビがリモコンによる操作になってから、このザッピングというのは
非常にイライラするものとして感じられるようになった。
リモコンの前、まだ辛うじてダイヤルでガチャコガチャコとチャンネルを変えていた時代。
ザッピングというのはなんだかガシャポン(・・・現代でもガシャポンて言うのか)
に100円だか10円だか入れてダイヤルを回すあの感覚に似ていた。
宝物が転がりだしてくるあのドキドキ感。たまらないものがある。

 そう思うと昔ってダイヤル式のものが多かったと思う。
電話だってダイヤルだったし、自転車の最強防犯具はダイヤルチェーンだった。
捻って何かを出すという行為がどうしてここまで快感に似たエモーションを醸し出すのか。
不思議である。不思議すぎてどうでもよくなってくる。
どうでもよくなってきた上に勢いが完全に無くなったので、
今日はここで閉店でござい。



 読んでくれる人がいるので、なるべく読むに耐えるものを書こうとは思うのだ。
が、20日からの5日分を連続で書くとなると非常に厳しいものがある。
とは言うものの、書き出してしまったからには仕方が無い。
今回も健康診断の検便が如く、無い腹から必死にウンコみたいな文を
ひり出していこうと思う。

 石川啄木という歌人がいる。
明治時代の日本を代表する歌人であり、明治時代の駄目人間の一人でもある。
病弱な体質に生まれ、頭の良い奥さんを貰い、
友人が家財道具を売ってまで用立ててくれた生活費を殆ど遊郭に費やし、
やっと決まった就職先で社会主義者と勘違いされたり
上記の遊郭通いを事細かに記した日記を「焼いてくれ」と亡くなる前に奥さんに頼むも
焼かれずに残ってしまい、後世に駄目人間だったことの証を残してしまう。
そんな石川啄木。小説も書いてるのに「歌人」って言われちゃう啄木。
それはまぁ漱石も歌詠んでるのに「作家」扱いだから、後世の歴史がどうたらという
アレなのだろうけども。
そんな啄木が鬼籍に入ったのが26歳だったそうだ。
現在の俺と同い年である。

 Kurt Cobainが自殺したのは27歳
 Jimi Hendrixが事故死したのも27歳
 Randy Rhoadsが事故死したのは25歳

 20代で逝ったミュージシャンは多い。
啄木は極貧の中で亡くなったのだけれど、上に挙げた英米人たちは
極貧だったりそこそこ裕福な家庭だったり。
けれどもただ音楽や文章の美しさを愛していたのは変わらない。
25,6歳で突然自分の周りがおかしくなりはじめたら、
そりゃもう気が動転してしまうだろう。
いやーホント、毎日じゃジェットコースターだったのだろうね、彼ら。
俺も乗りたいジェットコースター。だけれども出来ればもうちょっと生きてたい。


 そういえば冒頭に挙げた田んぼの写真、これは別に自宅の近くではない。
いくら千葉とはいえ、そんなに田畑ばかり回りにあるわけじゃない。
これもどこぞで拾ってきた画像なのだけれども、以前住んでいた埼玉県では
こういった風景もチラホラと見かけたりした。
何しろ社会科の実習授業と称して児童に田植えをさせるくらいである。
人手不足なのは解るが、足腰がまだ柔い子供に田植えの仕事は非常にキツイ。
大人しく納屋に仕舞ってある耕運機を出してきてくれと泣き言を言いたかったが、
そうもいかないらしかったから、子供の俺はそりゃもう必死に苗を植えた。
ボッチャンボッチャンと泥水に向けて苗を投入する。
田植え実習があったのはどうやら知り合いの中では俺の所だけらしいのだが、
出来ればもう二度とやりたくないなあと思うのである。
有機栽培農家の皆さんも、もしかしたら有機じゃないところも手植えなのかもしれないが
とにかく農業に携わる全人類の足腰に神的な何かの加護があらんことを。
あんまり酷使するとポッキリいっちゃうよ。

 
 北朝鮮が韓国を砲撃して、兵士・民間人4人の死者が韓国側に出ているようだ。
そんなんでも俺の周囲はいたって平穏である。
大学の時に北朝鮮からのミサイル発射で、関連して記事を書いたのは
仲間内で俺だけだったりして、あれぇこんなもんなのか!?
と驚いた憶えがあるので、今更驚きもしないのだけれど、
なんつーかこんなもんなのかなぁと思ってしまったりもする。

 よくよく考えてみたら、すぐ隣の国が紛争状態で
片方は独裁政権の上に核保有国というトンデモ状態なのだ。
欧米から見たら確かに「よくそんな平然としていられる」という感想が出てくるだろう。
平然としているんじゃなくてただ単に実感が無いだけなのかもしれない。
そりゃ確かに今更ギャアギャアと騒ぎ立ててみたところで
事態はどうにもしようがないのだろうし、誰もがみなこの紛争を
どう解決したらいいのかなんて解らないんだから仕方ない。
北朝鮮が共産主義と金一族による独裁を廃して民主・市場主義になれば
一件落着するようなものでもないのだろうから。

 とりあえず俺はといえば、韓国にいるらしい友人が
無事でいたことに単純に喜ぶだけである。
戦争にならなきゃいいのだけれど。



 ここ最近、日本茶ばかり飲んでいる気がする。
少し前までは紅茶ばかり飲んでいたのだけれど、
団子と一緒に飲む日本茶ってのはなんとまぁ落ち着くことか。
紅茶と違ってお茶請けが安上がりに済ませられるのもうれしい。
団子なんて3本セットでスーパーだと100円を切る値段でおいてある。
意外と最中や大福の方が単品だと高くついたりするのが不思議だ。

 コーヒーや紅茶も煙草には合うし、中にはココアなんていうオシャレさんもいるが、
湯呑みで日本茶を飲みながら吸っている煙草は「American spirit」だという矛盾。
いや、矛盾と呼ぶのはよそう。これはきっと文化のクロスオーバーなのだ。
煙草に火を点けるライターはオーストリア製、携帯電話は韓国製、
時計はこれ・・・どこだろう。ORISってどこのメーカーなんだろう。
聴いているFoo Fightersはアメリカのバンド。
そんなクロスオーバー(クロスオーバーって言葉合ってるのだろうか)
ばかりの物に囲まれた生活。つい最近、使っている湯呑みが
祖父が手作りしたものだということを知った。
やっぱ湯呑みは生地が厚いものに限る。


 
 日本人が着ているとちょとダサいのに外国人が着ていると
スーパーマンのプリントTってなんであんなに似合うのだろう。
特に金髪でサーフィンとかやってそうな外国人。
と思うことが多い。
長髪を伸びるがままに放置し、髭モジャなスタイルが似合うのも
外国人だからじゃなかろうか。
最も、当の外国人からしてみたら、スーパーマンTシャツは只の痛Tで
髭モジャ長髪は俺らと同じく汚らしいと思うだけかもしれないが。
日本人である俺からしてみたら痺れるほどカッコいいと思うのだ。
特に髭ロン毛。

 西洋は中世のころから騎士や王侯貴族にいたるまで
殆どが伸ばしっぱなしの長髪で、威厳を示すための髭をたくわえていたから
そういったスタイルが自然と板につくのかもしれない。
・・・自然と板につくって日本語として間違っている気がするが、スルーで。

 日本は長髪であっても髷を結う慣習があったから、頭頂部は剃髪していたし、
髭にいたってはおそらく生やしてはいたのだろうけれども
西洋のそれとは違って、あまり重要視されていないような。
そもそもがモンゴロイド系である日本人は、ゲルマン系やらの西洋人と違って
あんなに濃い髭が生えないからなのかもしれないけれど。

 そもそもが何故そんなに髭と長髪にあこがれるのかというと、
おれ自身が髭が濃い体質なのと、髪の毛を切るのが非常に面倒な性格だからで、
もしも日本の商業ルールに「髭・長髪OK」なんていうのがあったら、
きっと髭なんか伸ばし放題にするし、髪の毛だって肩まで伸ばしてやるのだ。

 が、社会はそれを認めてくれていないようで、許された一部のお洒落メンズのみが
髭と髪の毛を伸ばすことを謳歌している。
いいじゃないの伸ばしっぱで。何をチマチマ手入れなんぞしておるのか。
これだからお洒落さんたちは。。。
いや、自分が粗忽なだけなんだとは気づいているのだが、
そこは何か妙なプライドが先行してしまい、アンチファッショナブルになってしまうのだ。
大体、顔面の急所を守るために生えているんだから、
生やしてるんなら剃っちゃダメだろうに。。。



 ここ何日か、何故か管理者ページにログイン出来ない状態になっていて
ここぞとばかりに5日間ばかりサボタージュしてしまった。
ということで今現在11/25日である。
あまりにどうでもいい事を連ねすぎて、管理会社から
「貴様もう金輪際書くな」
というお達しでも出たのかと少し不安になったものの、
どうやら違かったようだ。まずは安心。
と同時に、書けないからこそ最近の記事を読み返してみたところ、
誤字があるもの、当初書きたかったことを書けていないもの
(本筋でない話題に脱線しすぎて戻れなかったらしい)
何故書いたのか解らない程くだらないもの。
ゴミの山である。

 いや、活字に責任はない。
書いている俺に全責任があるのだが、それにしても文章の夢の島状態。
左右上下どこを見てもゴミ溜めである。
ゴミを集めてどうしようというのか、それは書いている俺にも解らない。
解らないが、まぁ他にやることもないので一先ず書く。

 最近、書道の文字を面白いと思うようになった。
学生時代の歴史の教科書に出てくる碑文の写真を見て
「当時の人たちはこんな文字を読んでいたのかぁ。サッパリだわぁ」
とか思っていたのだが、英語で言うところのフォントというのだろうか。
字体。ひとつの文字だけとってみても、過去何千年の歴史の中で
さまざまな書き方が生み出されてきている。

 「ばらかもん」という漫画を読んでいて、書道家というものの
苦悩だとかが少し解る気がしたのだが、先人達が培ってきた
幾百とある字体、そしてこれからも進化しつづけるであろうその字、
進化を担うべき存在である自分、どんな言葉にどんな字体を合わせて
それをどうやってアレンジするのか、またはアレンジしないのか。
たまに字の中に絵描いちゃったりして。

 字を書くという行為が何故アートになるのか、全然解らなかったのだけれど、
何のこたぁない。手紙を書く時やレポートを書く時とか
個人的な感情に突き動かされて、「そうあるべきだ」と教えられて
そうやって書いてきた「文字」が歪むことがあるのと同じだ。
と、個人的には思う。バクザン先生って凄かったんだなぁ。
よかいち爺ちゃんとか言ってごめんよ。

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