• 2021.08.27 Friday
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 お久しぶりです。
サークルの合宿に行き、人生初の記憶飛ばしをしてまいりました。
とても爽快でした。翌昼に目覚めた時、何だか生まれ変わった気分でした。
とはいえ、ご迷惑をかけた皆様方にはこの場にて謝罪を。
まっこと申し訳ありませんでした。

 というワケで、合宿の積もる話はあらねど、今日は一つ
仏法の講釈じみた事をしてみようかと。
否、仏法の矛盾点を突いてみようかと思います。
以下、眠たくなる話が続きます。今寝たくない人は
寝る前にもう一度このページを開いて読んでくださいね。


 仏教の悟りの境地は「涅槃」もしくは「ネバーナ」といいます。
簡単に言えば、すべての「業」から解き放たれて無私無欲の状態になる事です。
「業」は「カルマ」とも呼ばれ、およそ人間が抱く全ての「欲」の事です。
食欲・性欲・睡眠欲は勿論、物欲や占有欲も含まれるのです。
これらの欲を全て断ち切った状態が「涅槃」であり、仏法僧はこの状態を目指して
日々の修行に励みます。(ここで極限修行を思い浮かべたキミは負け組です)

 しかし、ここで矛盾が生じます。
本来「涅槃」に至るには、上述した通り全ての業を断ち切らなければなりません。
つまり、「○○したい・なりたい」という想いそのものを
断ち切らなければならないのです。
つまり、「涅槃の境地に達したい。それを維持したい」と思って修行している
仏法僧は、いつまで経っても涅槃にたどり着く事は出来ません。
「涅槃の境地に達したい」という想い自体が「業」になってしまうからです。

 ならばどうすればいいのか。ボーズ頭の坊さんは考えました。
考えに考えた挙句、一つの答えを導きます。それは「無住居涅槃」という境地です。

 「無住居涅槃」は従来の涅槃に留まる事を善しとせず、
更に無私無欲の境地に達するべきを目標とします。
全ての定着性から自分を解放しなければならないのです。
無住居涅槃に終りはありません。悟りを開く事は従来の涅槃よりも
遥かに不可能な事になりました。
強いて言えば「無私無欲の境地を求め続ける事」これが悟りという事になります。
しかし、「涅槃」に関しては目標を持つ事は最早危険な事でしかありません。
一度目標を持ってしまえば、それは決して涅槃にたどり着く事が出来なくなるのです。
終りなき廃棄の旅。それが仏教における「涅槃」なのです。

 果たして仏法僧は涅槃にたどり着く事が出来るのでしょうか。
彼らは死後の世界でも修行を続けなければなりません。
いつか涅槃に達して仏になる事が出来た時、それはやはり「人間」とは
呼べない存在になっているのでしょう。
我々の想像を遥かに絶した場所に「仏」は存在しているのです。

 だから僕は仏教やりません。だって面倒臭いじゃん。

-------------------------------おしまい----------------------------------------

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